2016年6月12日日曜日

大迫の産業と商人(養蚕)

 絹の生産は、今から5000 年くらい前に中国で始まり、世界の各地に広まりました。日本には2000 年くらい前に伝わり、江戸時代の中頃(1700 年代中頃)、生糸の生産量が急に増えました。
世界遺産 「富岡製糸場と絹産業遺産群」のHPより

 特に群馬県では、養蚕・製糸業が盛んになり、技術も発展しました。群馬県の桐生や伊勢崎では、絹織物業もさかんになりました。江戸時代、日本は外国と貿易を制限()()していましたが、1859 年外国との貿易が始まると生糸は日本の最大の輸出品になりました。

 そこに着目()した明治政府は、1872(明治5年)にフランスの最新式の製糸機械を備えた()()富岡製糸場を富岡市につくり、品質の良い生糸の作り方の見本を示すことにしました。富岡製糸場は、1872年(明治5年)に作つくられた、()から生糸()(絹()の糸)をつくる工場です。富岡製糸場は機械を使って製糸技術()を外国から学び、それを改良し、日本中に広めました。

 このことに目をつけたのが、大迫の商人です。


  それまで町内で、手作業で行われていたものを、1886年(明治19年)に大迫協同製糸会社を設立し、蒸気機械を県内で初めて設置しました。

後藤製糸工場

 その後、1894年(明治27年)には、多くの工員を抱え、県内最大規模の工場群となりました。また、翌年には富岡製糸場に女性工員を派遣して技術も習得させました。


   さらに桑の木の改良や養蚕法の改善を重ね、高品質の生糸が生産さえるようになりました。

町も大変賑わっていました。


 その頃、京都から生糸の買い付けに来た商人が、江戸時代のひな人形を持ち込んで、町内の人に売ったことから多くのひな人形が大迫に残っているのです。


 高価なものは、「家」一軒が建てられるくらいのものもあるとのことです。(現在の価値にすると数千万?)

 その後のお話は、「開町400年の講話」では、お聴きすることができませんでしたので、中村館長さんにいつか教えてもらいたいと思っています。

 やはり大迫はすごいところです。 今回で「開町400年」の特集は終了とさせていただきます。。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿